素の自分

「素の自分」ってのは、まったくもって無防備なときにあらわれる。それは本を読んでいるときの自分。まさにそれは「静」なる「素」だ。


学生のころ、センパイがそんな話をした。

ちなみに「動」なる「素」はトイレとお風呂に入っているときの「自分」らしい。

そんなもんかねぇ、とそのころは思ったけど、最近本を読んでるとき、たまにふっとそのことを思い出してしまって、「あ、いま静素だった」思ったりして一人でニヤついたりするww

確かに本を読んでいるときの自分は、「素」で「無防備」
現実の中で生活しているのに、「架空」の世界に入り込んでるし、まわりがどんなにざわついていても、その世界ではちがう音が流れ、違う時間が刻まれてる。


電車の中で本を読んでるときがまさにそれ。


カフェでも読むけど、電車のときとちがって時間が気になるわたし。
珈琲おかわりしなくっちゃダメかな、とか、長居してるかなぁ、とか誰もそんなこと気にしてないのに、勝手にそう思ってしまい、一時間ぐらいで退散する。


でも、電車は別だねー。誰も話しかけないし、珈琲のおかわり頼まなくてもいいし、気が楽。
気づいたらもう下車駅なんてことは多々あるけど。


まわりの人も、みんな自分の世界に入り込んでいて、「素」さらけほうだい。



今日は読後に「イマジン」がぐるぐるしてます。


読んだ本:手紙(東野圭吾


移動時間がある日は一気に読めちゃうからとっても幸せ。